「なので」の合戦
いまでは「なので」を文頭接続詞として使うことが当たり前になった。
キーステーションのアナウンサーも普通に使っているから言葉に「体力」が付いたということだろう。
とはいっても私にはまだ抵抗がある。本来接続詞ではないのである。
本来「これは◯◯なので」と、その前に何かがあるはずなのである。ここがオバケになっている。
辞書によっては文頭の「なので」を用例として載せているものもあるようだし、ネットで検索すると「現代では『なので』の接続詞的な役割が認められつつある」と肯定してるものが多い。
それを踏まえたうえで、「なので」は敬語でないから目上には使えないとしているものもある。まあそれはそうだろう。
調べてみると「なので」は、断定の助動詞「だ」の連体形「な」と、接続助詞「ので」が合体した「連語」ということになる。つーことは接続詞ではない「連語」は文頭には使えないはずである。
いまでは結構オッサン、オバハンも使うようになっている。それが若者へのゲーゴーに見えるのは穿った見方だろうか。
そもそもこうした「なので」の使い方は世紀が変わってから定着しだしたと感じる。社会がネット社会になってからの産物だと思う。今は何でも「短縮」「JK・JC流行語大賞」ってタイムマシンで30年前にもっていったらなんだと思われるだろう。「ワンチャン」と言われたら、2世代までなら「犬」。私なら「エブリバディ・ハヴ・ファン・トゥナイト」がヒットした英国のアーティスト。今の若者は「ワンチャンス」。
NHK放送文化研究所の柴田実氏はかつて「『なので』接続詞を使う人には、まず、論理構造を褒め、話し手、受け手の心理状態、理解レベルを細かく考えながら何が不足しているかをいっしょに考えるようにしています。すると、年配者の前ではだんだん『なので』を使わない表現を考えるようになってきます。話し手としてのレベルが上がって、聞き手の状況にも配慮できるように、そして自分の表現を細かく考えるようになるのだろうと思います」と述べている。
振り返れば、前兆はあった。「なので」をちょっと丁寧に言うと「ですので」。
「そんな訳で」「ですから」「ですので」「であるからして」「そういう訳で」そしてウチアタイもする「ということで…」。ムリクリな場面転換につい口に出た。
説明を端折って重い荷物を軽くする。政治家の演説などでもよく出てくる。「ドンナ」わけでそうなったの?「丁寧な説明」はどこ行ったの?
「今日のお知らせです。“ヤック”に対して“エック”地域によっては“ヨック”となります。
意味は単なる呼びかけです。“ヤック”と声をかけられたら“エック”または“ヨック”と答えます」
小松左京の短編「せまりくる足音」。未来に起こるコミニューケーションの世代間ギャップの話。学生の頃読んだがなぜか心に刺さった。ジイさんが生きていくために必死で若者ことばを覚えて使うのである。短く先鋭化したいくつものコトバが彼を追い詰めていく。
「なので」はもはや公式の場でも登場する。10年を待たず、それは当たり前になるかもしれない。しかし、ここで「なので」に対抗しておかないと、今のネット社会にあってはコトバの世代間ギャップは途方もないことになりそうな予感がする。
「アウトブレイク」「オーバーシュート」「クラスター」「サイレントキャリア」「ソーシャルディスタンス」「ロックダウン」そして「ステイホーム」。
言い換えられるジャン。フツーの日本語に。
専門用語とカタカナ語の嵐。そしてとばされる「コトバ」。もう「せまりくる足音」はすぐそこなのかもしれない。
再び小松左京「まりくる足音」。
「ではみなさま、残り火を大切にいたしましょう。“オールド・ラング・サイン”放送でした」
“オールド・ラング・サイン”。「蛍の光」を聞く前に言うべきことは言わなければ。