夜ごはん、食べた?

 「夜ごはんもう食べた?」

 いつのころからか、当たり前に聞くことばになりました。

 以前は「夜ごはん」「昼ごはん」といういい方はせず、「食事されましたか?」「お昼食べた?」「晩ごはん出来た?」「夕ごはんどうしようか」という言い方をしていたように思います。

 40代以下。特に女性は「夜ごはん」派がかなり多いのではないでしょうか。

 そもそも「ごはん」は「御飯」であって、「めし」や「食事」の丁寧語です。「めし(飯)」というのはもともと、米を含む穀類を炊いたものをいう言葉でしたから、庶民にとって穀類=食事だったことがうかがえます。

 江戸時代の初めまでは、一日二食だったそうで、一日三食になったのは、町人文化が花咲いた元禄時代以降のことなんだそうです。ちなみに元禄バブルが弾けたあとも、一日三食の習慣は世間に定着しましたが、享保の改革を主導した八代将軍徳川吉宗は,会食などせず、一日二食を通したそうですが。

 そんな江戸時代、今の大阪泉佐野に食家(めしけ)という変わった名前の豪商がいたそうです。吉宗はもともと紀州徳川家の出ですが、その紀州の殿様が参勤交代で江戸に向かうとき、この食家さんのところによって中食(弁当を使う)を命じたところ、機転の利く食家さんが即座に千人分の冷や飯を準備した、それで食家(めしけ)という名前を賜ったという言い伝えがあるようです。

昔は弁当といえば「おにぎり」。日本で初めて誕生した宇都宮駅の駅弁も竹皮に包まれたおにぎりだったそうですから、それこそ、お昼は「ごはん」だったわけです。

三食食べていたといっても、江戸時代は武士も含めて今とは比較にならないほど粗食でした。その代わり「コメ」は食べていたんです。

昔の人気ドラマ「寺内貫太郎一家」で、小林亜星さん演じる貫太郎が、お代わりをして飯櫃から大盛りの御飯をよそう場面が出てきましたが、江戸の昔に電子ジャーなどありません。朝炊いたら、それを一日朝昼晩で食べていました。

落語の演目に、長屋の住人が海産物や野菜を売りに来る売り子に声をかける場面が出てきますが、冷蔵庫もないですから、みそ汁の具などはそうやって手に入れていたのでしょう。これから働きに出る朝は、炊き立ての温かいご飯に、味噌汁。昼は冷えたご飯にイワシや野菜などちょっとしたおかず。夜は冷や飯に漬物を添えて、熱いお茶をぶっかけた茶漬け。今みたいにダイエットのために炭水化物を減らして…なんて食事はありません。逆に炭水化物=コメが命です。しかも江戸の町の成人男性が食べていたコメは、一日五合だったといわれています。

昔のビール会社のコマーシャルを見たことがありますが、「ビール一杯は御飯一杯のカロリーと同じだそうですからタイシタものです」という内容でした。そう遠くない過去でも、カロリーをとるという感覚は今と全く違っていたんですね。選択肢もあまりなかった。

だから、「ごはん」=(その日使うエネルギーに見合うカロリーをとるもの)という意識が強かったんだと思います。だから時代劇に出てくるお食事処の暖簾もみんな「めしや」。(とはいえ作っている江戸時代の農家の食事はコメに雑穀を混ぜた「かて飯」だったんですけど…)

通勤圏も広がって、いまや「晩」にご飯を食べられない時代。「晩ごはん」が消えていくのは仕方ないかなと思いますが、オフィス街の住人は「ランチ行きませんか?」「今日はカレとディナーなど」なんぞと仰います。JC総研の調査を見ていると、今ドキ女子は、パンやパスタを「主食」として選択していると出ています。男はやはりコメですが、主食として一日に何回コメを食べるかというと2回に満たないそうです。

今では「ごはん」は、ごはん粒抜きの食事になっています。

「夜ごはん食べた?」いう問いに対して「じゃ、イタ飯で行こう!」という答えはどうなんでしょう。私はやはり日本人はコメだろ!と、箸と茶碗を持って「突撃お釜の晩ごはん」ですけど。

2021-01-25 | Posted in UncategorizedNo Comments » 

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