大過なく…
「有事」における法律のありかたが、また論議を呼んでいます。本来は平時に有事のことを想定して考えておかないといけないのですが、どうも日本人は(一部かもしれませんが)危険がのど元を過ぎると「平常性バイアス(都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう傾向)」が働いてしまうようです。
重要な役目の数年間を全うした後の離任式などでよく、
「大過なく過ごすことができました」
というコトバを聞きます。
このコトバを聞いてずっと引っかかるものがありました。
「大過」というのは、大きなあやまちとか、大変な失敗という意味。ようするに、大きなミスなくやり通せた…という意味なんでしょうが、本当にそういうまとめ方でいいのでしょうか。
どんな役回りであっても、何らかの提案なり改善というのはできるはず。“爪痕”を残すことはできるはずです。何もしなくても世の中がいい方向に進んでいく時代ならともかく、いまはコロナに限らず、何もしないで今まで通りにしていればいいという時代ではありません。これからの時代、このコトバは「死語」にしていかなければいけないのではないかと思うのです。どんなことでも変革しようと挑戦する。自分の任期中に出来なくてもやろうとする。そういう姿勢が求められてくるのではないかと思うのです。
地球の温暖化問題を考えても、今の状況をそのまま放っておけば、2100年には人間は(動物も)この地球上で今と同じように生きてはいけません。その前に全く想定できない出来事をいくつも経験せざるを得ないでしょう。
ここ数年、「数十年に一度の」とか「経験したことのない」と冠のついた気象現象を何度経験したことでしょう。
それは今回の新型コロナウィルスも同じです。
歴史というのは、のちの人々が「評価」するものです。時の為政者は「善かれ」と思って政策を作っていきます。しかしそれが完全とは言えません。稀代の改革者だった田沼意次は賄賂政治の権化とされていますし、忠臣蔵の悪役である吉良上野介は、地元では大変な名君という評価です。その吉良が、たまたま天皇の使いの饗応指導役で、ちょっと強めの指導をしたら、短気な浅野長矩がありえないキレ方をした。何かをやろうとしたのは吉良のほうだったととらえることもできるのです。逆に言うと浅野内匠頭が「大過なく過ごすこと」ができる人で、ハイハイということを聞いていたら、四十七士の討ち入りはなく、赤穂浅野家も幕末まで続いたかもしれないし、大石内蔵助はボーっとした田舎の家老で人生を終えたかもしれない。ただ、この事件は元禄時代という江戸300年にあって平穏な時期だったからとりわけ際立つのです。 これからの時代は、だれもが何をしたかを「コトバで伝えられる」必要があると思います。