雅は一瞬で…
チャイナドレスは、中国伝統の服というイメージですよね。しかしあれは満州族の服であってそれ以前(明朝以前)の女性の服はもっとゆったり裾も広がっていました。最近はこうした「漢服」を着ることが中国でも流行っているようです。しかし、日本ではチャイナドレスという言葉のイメージもあって、中国服ととらえる方が多いようですね。
でも、満州族の服である証拠はその形状に表れています。まず、襟が立っているのは寒さ対策。そしてあの色っぽいスリットは、馬に乗るための絶対条件というわけです。満州族は騎馬民族だと考えると、納得できますね。
では日本の「和服」はいつから「ワフク」なのか。
やはり形が定着していったのは平安時代のようですね。今でも宮中の行事にはその装束が継承されています。
学生のころ、樋口清之先生(「梅干しと日本刀」の著者・考古学者)の講義を受けたとき十二単(じゅうにひとえ)の話が出ました。
十二単は、肌着の小袖の上に何枚も袿(うちぎ)を重ね着していって、次から次に着物を着て行って、一番最後が唐衣(からぎぬ)。髪型は例の大垂髪(おすべらかし)。癖っ毛の人なんか大変だったでしょうね。ちなみに髪のお手入れは想像以上に大変だったようで、今のようにシャンプーやリンスなどありませんから、米のとぎ汁で洗う。しかも乾かすのに気が遠くなるような時間が必要なので、そのために休暇をとったりしていたようです。寝るときはぐるぐる巻いて箱に入れていたんだとか。朝の準備なんか、使用人が大人数で取り掛かったのではないでしょうか。
ちなみに樋口先生によると、十二単は着るときは大変だけど、脱ぐときは「スポッ」と抜けてしまうのであっさり脱げる。脱いだ着物をまた使用人たちが大わらわで片づけていたんでしょう。
ちなみに現代沖縄のフォーマルウエア―「かりゆしウエアー」には「喪服バージョン」があります。ネットで見ても「かりゆし喪服」みたいに書かれているのですが、どうしても違和感がぬぐえません。だって「縁起がいい」とか「めでたい」ですよ。新たな呼称はつけられないものでしょうか。