語尾
コロナ禍にあって出されている「緊急事態宣言」をどう解除していくのかが論議されています。気のゆるみというのは数字で測ることができるものではないですから難しいですよね。江戸時代のコトバで言うと「緊急事態宣言被仰付候」とでもいうのでしょうか。「おおせつけられそうろう」の「候(そうろう)」はこの場合丁寧語です。一方で、昔は沖縄(琉球)から青森まで各地で話し言葉が全く違っていましたから、面と向かって話をするのは非常に大変なことだった。そこでこの「候コトバ」が「共通語」になったという話です。
金田一春彦先生が「美しい日本語」という本の中で、「語尾につける言葉」について書いていらっしゃいました。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる「●●ぞな“もし”」の「もし」がそれです。
一方で、名古屋弁の代表だと思っていた「~なも」という言い方は、ほぼ使われなくなっているようです。これも勝手な思い込みかもしれませんね。一部ドラマなどで沖縄の人はみんな「●●サー」「△△サー」とサーサー言い合っているようにとらえられた時期がありましたが、みんなそんなに「サーサー」言いません。
春彦先生曰く「英語では『ワンダフル』を『ワーンダフル』というように強めたいところを伸ばすし、それによって意味が変わることもないが、日本語で『最高』を『さーいこう』というと、「さあ、行こう」という別の意味にとられてしまう。意味が変わってしまうから文節の途中で延ばすことはできない」というのです。
歯切れよく話すためには「文節で区切れるところに何かを持ってこないと、話している方は心理的に落ち着かなる」というのです。
演説をするときなど、文末に聴衆に対して「確認する」ようなコトバを淹れる方がおられます。
「これは政府の責任だ、チガイマスカ!!」
「間違ってるんだ。ミナサン!」
カクエイ先生も、演説の文末に「ソウデショ?」という独特の一言を入れて聴衆を引き付けておられました。文末の処理というのは非常に大切です。語尾が消えてしまうような話し方だと、説得力に欠けてしまいます。かといって強すぎると強面に聞こえてしまう。「語尾につける言葉」無しで、歯切れよく話すためには、内村航平選手が鉄棒競技で魅せる「派手な荒業を美しい着地でまとめる」ような繊細さも要求されるのだと思います。